僕は人を信じていない
ビジネスでも、プライベートにおいてもでてくる「人を信じる」事について。
人間としての生活には、一部の人を除いて、基本的に、他人との繋がりやコミュニケーションを介して生活が成り立っている。
そして人として集団で生きている中で「人を信じる」という行為が生じる。
この「人を信じる」について、僕なりの見解があるので纏めておきたい。
僕は人を誰も信じてない
僕はたまに「中島さんって、人の事を誰も信じてないですよね」言われる事がある。
そう。僕は人を一切信じてない。
家族も友人も、社員も恋人も誰だとしてもだ。
ただ、僕は人を信じてないし、疑ってもいない。
ただ起きた事実だけを確認し、その事実を受け止めて、消化するだけである。
人を信じる人、信じない人いずれかを否定するつもりはない。
また他者が、全員悪人だと思って接している訳でもない。
「信じる」という行為の前提と意図を自分なりに考えた結果。僕は上記考えにたどり着いた。
「信じる」という期待
僕は「信じる」とか「信用」という言葉が嫌いだ。
なぜなら僕は「信じる」という言葉の裏には、
「他者が自分の理想や、都合の良い言動を行なってくれるという期待」だと考えているからである。
・信じてるから、言わないでくれるだろう。
・信じてるから、助けてくれるだろう。
・信じてるから、◯◯という事はしないでくれるだろう。
・信じてるから、任せても成果を出しれるだろう。 ...etc
など、自分が期待している結果とズレが生じた時に、
人は「裏切られた」とか「信じてたのに」という感情に陥るのである。
しかし相手は自分の期待を全て理解する事は出来ない。
まして大多数の人は、最終的には他人より自身を優先する。またそういった自己優先の思考は至極真っ当な考えだと思う。
だから「裏切った」とされる本人は、裏切るつもりはないのである。自身の考えを優先したまでなのだ。
つまり信じるという行為は「勝手な期待」だというのが僕の見解だ。
そのため「信じる」という勝手な期待がなければ、「裏切り」という行為そのものが起こり得ないのだ。
人は悪にも善にもなりえる
人は環境次第で、悪にも善にもなりえる。と考えている。
仲の良い人間だって、家族だって、恋人だって
目の前に自己利益があれば手にしようとするのである。
相続で揉める家族がいい例だ。
血を分け合った家族だって自己利益の為に争うのであるから、他人と揉める事は容易に想像がつく。
善悪の意思が無くてもそうだ。
例えば知人を助けようと車で病院に運んでる最中、子供を轢いて殺害してしまったとしよう。
極端な例ではあるが、その人は一瞬で、善人から悪人になるのである。
本人の意思有無も含め、
その人の置かれた環境・状況次第で、人は悪にも善にもなりえるのだ。
とはいえ僕はどちらかと言えば「性善説」を信じてる側の人間である。
信じているというか、そう願いたい。
人は生まれ持ってして善であり、状況環境次第では悪にもなりえる。
悪になりえる環境状況を取り除く事ができれば、みな善として生きると願いたい。
強い信念と、確固たる判断基準
僕は信じる事がない。その為裏切られる事もない。
そしたら何を、判断基準とすれば良いのだろうか。
そう思った時に僕は「事実」だけを受け止め判断する事に決めた。
自分の見えていなかった相手の一面が見えたとしても、万事その事実を受け止めて、相手のせいにせず解釈して消化する。
そして事実だけに目向けて、自身の責任で判断を行うのだ。
他者の言動に一喜一憂せず、すべては自責であるという強い信念をもち、確固たる判断基準を持つ事が大事だと考えている。
これが、僕の人を信じないという事に対する見解だ。
誰しもがいい人間である一方、自分も含め誰しもが悪い人間になりえるという前提をもち。
一方的な期待をせず、自責の信念と判断基準をもって、自分自身の判断を「信じる事」
それがお互いにフェアな関係なのかなと思っています。